みなさんこんにちは~!

朝晩は寒く、日中はじめっと暑い日が続いておりまして…寒暖差に気をつけましょう!

さて今回はヨナ書こぼれ話シリーズ第2弾です。(ヨナ書を読もうシリーズは完結致しました。)

今回は3章のニネベの王様の悔い改めからのこぼれ話です。

ヨナ書を読もうシリーズの第三弾で、ニネベの人々の悔い改めの姿を追いました。

その中で、なんとニネベの王様も自ら王座から立ち上がって荒布をまとい、灰の上に座るというびっくりな行動にでます。

さぁ、今日はこの王様の座った「灰」についてお話したいと思います。

現代で灰といえば、たばこの灰くらいしかでてこないのですが、いけにえを捧げていたユダヤ人たちにとって灰はとても身近なもの。しかも、罪の供え物たちの灰。同じ灰でもまったく重みが違いますね。(方やいのちがかかっている)

灰はヘブル語でאֵפֶרといいます。「灰、塵」という意味で、聖書に最初に出てくるのは創世記18章27節。

(創世記2章の人は大地のちりでつくられた、のちりは全く別物)

創世記18章と言えば、ソドムとゴモラの滅びを宣言された主に、正しい人が○○人いたら~の箇所です。

その中で、アブラハムが正しい人がいるならば憐れんで欲しいと思って

「わたしは塵や灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます」という聖書個所です。

ヨナ書との共通点は、ソドムもニネベも神が放置してられないほど罪があったということ。

そんな中で、アブラハムは私は塵や灰にしかすぎませんが、主よどうぞ聞いてくださいと語っている。

聖書の中で、灰の上に座るとか、灰をかぶるという悔い改めの方法はこの創世記のアブラハムの言葉にルーツがあるのかもしれませんね。

こんな灰のような、塵のようなわたしにどうぞ目を向け、聞いてください、憐れんでください、赦してください、と。

聖書の中で何か良くない事があるたびに、ユダヤ人は灰の上に座る、灰をかぶる事をしていたので、

ニネベは異教徒の国ではあったけれど、長い歴史の中でのユダヤ人たちのその行動を良く知っていたのかもしれません。

何にせよ、異教徒であり、自分たちの悪をむさぼっていたニネベの人々がヨナの語る「神」の言葉を信じ、最善を尽くしたという事はとてもすごい出来事だと思う。

そのへんもっと詳しく知りたいのが私たちの心情ですが、聖書はあまりその事に興味はなく、

ただ淡々とニネベの人々がどうしたか、だけを語っている。なんか、考えさせられるものがあります。

理由を知りたい私たち。でも、その時、「見ないで信じる者は幸いです」というイエス様の言葉を思い出す…。

日曜日の川口スタッフのメッセージでも語られましたが、神の言葉を「知っている」ではなく、神の言葉を「信じる」者で

ありたいですね。

ではでは~🌼