教会の敷居が高く感じるのはどんな理由からでしょうか。教会に誘われる人がなんとなく敷居が高く感じられることを挙げてみました。
お金を取られるのではないのか?
内灘聖書教会は、1998年に現在の千鳥台の地に引っ越してきました。これで内灘町内で四回目の引越しになります。旭ヶ丘、鶴ヶ丘、緑台、そして現在の地です。よく、教会はお金をどうやって集めるのですか。どこから来るのですかと問われます。あんなに大きな建物を建て、広い駐車場を持っているのだから、よほどお金がある教会と見られているようです。
教会のお金はどこからも来ません。外国に本部があって送られてくるということはありません。すべての必要は、日曜日の礼拝の際に、かごを回して、各自が自由にささげるお金(献金と言います)でまかなわれています。だれがいくら献金しているか、だれも知りません。それぞれが、神様への感謝のしる しとして、ささげています。その意味の分からない方や、持ち合わせのない方などは、そのままかごを次の人に回してかまいません。
献金は入場料、説教の聴講代などではありません。 それに教会はみんなからお金をむしりとって営利を得ているなどということはまったくありません。あるとすれば借金がいっぱいあって、せっせと支払っているというのが実情です。
教会に行くと無理やり信者にさせられるのでは?
教会に来られても、それで入会を迫られるなどということはありません。何かを強制されることもありません。
教会としては、ひとりでも多くの方々に教会においでいただき、聖書の教える生き方や、イエス・キリストについて語られることを聞いていただきたいのです。何年でも、納得ゆくまで聞き続けてくださることが、一番うれしいのです。
宗教はマインドコントロールされるので恐ろしいという警戒感がイスラム原理主義のテロ事件などで広まっているようです。キリスト教を装いながら、しかし実態はそれとは程遠いエホバの証人(王国会館)や統一教会は、まさにマインドコントロールによって人々を操作する危険な新興宗教です。それには気をつけてくだ さい。
教会では、みんなで賛美歌を歌い、聖書が読まれ、その箇所を中心にしたメッセージが牧師によって語られます。
キリスト信者になると戒律に縛られて自由がなくなるのでは?
多くの人たちが、厳しい戒律を守って不自由に生きているのがクリスチャンだと考えているようです。しかし、まったくの逆です。「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました」と聖書にあります。真のクリスチャンは、この自由を謳歌して生きています。この自由を得るまでは、人は様々なものに束縛されて、不自由に生きています。将来への不安という束縛、死への恐れという束縛、罪の性質を断ち切ることのできない罪の束縛などでがんじがらめになっているのです。
キリストはそうした束縛から私たちを解放して、自由を与えてくださるのです。世界の偉人たちの多くがクリスチャンです。どうしてそんな偉大な業績を残しえたのでしょうか。彼らが自由だったからです。束縛から解放されて軽やかに、自由な発想の中から偉大な発明が、発見が、行動が、作品が生まれてきたのです。